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南無妙法蓮華経


人間の両手は、よいこと、わるいこと、様々な働きをします。その両手を一つに合わせて胸の前にたもつのは、人間の一切の作為を放棄した姿勢です。と同時に、まったく無防備・無抵抗の姿勢です。つまり、宇宙の大いなるいのちにすべてをお任せし、天地すべてのものと「和」しているという、すがすがしい、しかも温かい境地に人間を導かずにはおかない姿勢なのです。


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謙虚さ

私達は日々様々なご縁のなかで生きています。縁によって生かされている、といってもいいでしょう。人との出会い、ものごととの出会い、そして家族との会話一つも、その時のタイミングが生み出す縁によるものです。そうした縁の一つ一つが、いつでも善いものであってほしい、喜ばしいものであってほしいと、私たちは願います。しかし、そう都合よく行かないのが私達の人生です。とくに人とのご縁では、嫌なことや、不都合なことが起きると、とたんにその出会いは善縁と感じられなくなります。神道の黒住教を開かれた黒住宗忠という方は、何につけ「善悪ともに天命と思えば、少しも苦にならない」と言われ、「何事も有り難しにて世に住めば、むかうものごと有り難いなり」と示されています。つまり、この世のはたらきは全て天命であり神仏のはからいなので、めぐりあう縁に善いも悪いもなく、自分中心の見方をしなけれは、何もかもが必要があって出会うありがたい縁だということです。そして、そうした縁を通して真理を学び、受け取ることができたら、それこそが「善い縁を結ぶ」ことの本来の意味だと思います。仏教徒であれば、仏の教えを伝えるご縁がそれに当たります。ところで、私たちはどうして良い縁を望むのでしょうか。漠然とその方が幸せだから、と思う人も多いでしょうが、仏の教えからすると、私たちは仏性をそのものとして生まれてきたからです。それが善い縁を結びたいと願う根源的な理由です。全てが調和した円満な状態を、私たちの心は常に求めているのです。そのような私たちが、つい顔を覗かせる自分勝手な思いに負けないで、出会う人や物事をいつでも善い縁にしていくポイントは、そのご縁が何を教えているのかを「学ぶ」姿勢と 、そのことで気づいたはあらゆる点を「省みる」ことです。仏は、あらゆる形で教えを説き、真理を示していますから、人や出来事との出会いの中にあるお諭しをキャッチすることで、全てが善縁となるのです。 また、法華経の「妙荘厳王本事品みょうしょうごんのうほんじほん)」は、子が親を仏の教えに導く説話ですが、ここでは親である妙荘厳王が、立場や体面にとらわれないで 「柔軟」に子の進言を聞き入れ、「謙虚」な気持ちで仏道修行に励む姿勢が描かれています。 開祖さまは、善い縁を作るには「まず人様を拝むこと」と示され、自分を高く見せようとする小我(しょうが)を捨てると、善い縁となるふれあいが生まれるとも言っています。心ひとつで、わが子が人生の師ともなる善縁が展開するのです。 子供からの指摘を柔軟に受け入れられない頑固親父には耳が痛い話ですが、わがままが出がちな家族だからこそ、日々良い縁を繰り返す 心の姿勢が大切なのだと理解しています。脇祖様は、「人の気持ちをよくくんで物事に当たったなら、どんな人とでも円満にお付き合いできる」と言って、常に人を思いやることを忘れず、「人様を救うのは真心が第一」と語った通り、慈悲に徹する 姿勢を貫きました。病の問屋と言われるほどの病苦や貧しい暮らしの中で味わった苦しみから、「良い縁は真心が結ぶ」という真実を体験的に学ばれたのだと思います。 では、今私達の周りで苦悩にあえぐ人の求めに私たちはどう答えたら良いのでしょうかーー 大事なご縁を見逃しているのかもしれません。


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柔らかな心、法に従おうという素直な心

お釈迦様は「一切皆苦(いっさいかいく)」とお説きになりました。この世の全ては苦なのだという真実です。しかし、「苦である」という真実と、「苦にする」という心理とはおのずから別です。苦であっても、苦にしなければいいのです。それは、お釈迦様や良寛和尚(りょうかんおしょう)のような「悟った人」でなくても、私ども凡人でもある程度はできることなのです。それを可能にするのは、柔らかな心、法に従おうという素直な心を持つこと、これに尽きると私は思います。