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授記品第六
授記品第六(じゅきほんだいろく)の中に、「魔事(まじ)あることなけん。魔及び魔民(まみん)ありといえども皆仏法を護らん」という一句があります。魔というのは、正しい道の邪魔をするものすべてをいいます。魔民というのは、その家来たちです。正しい道を悟ろうとすれば、入れ代わり立ち代わり現れて、誘惑したり、考えを混乱させようとしたりしますし、正しい道を行おうとすれば、徒党を組んで妨害や脅迫をしにやってきます。この「魔」には、2通りあります。第一は「身内(しんない)の魔」であって、われわれの正しい心をかき乱そうとする本能の衝動や邪(よこしま)な思いです。第二は、「身外(しんがい)の魔」で、外部から加わる誘惑や圧力などです。本当に仏の教えを実行し、あるいは、心から仏の教えを求める人たちにとっては、かりにときどき「身内の魔」すなわち邪な思いや本能の衝動の誘惑があっても、それがかえって道を求める志を強くするはたらきをするのです。そして、結果としては仏法を護るということになります。だから、魔や魔民があってと、魔事はなくなるわけです。また、第二の「身外の魔」とは、仏法を身に行うひと、あるいはそれをひろめようとする人に対して、誘惑、非難、妨害、脅迫を加えようとする人たちの行動や言論の力です。ところが、「悪に強きは善にも強い」という言葉もあるように、光徳(こうとく)という理想社会においては、このような魔の人たちも、その魔の強い力を、仏法を護ることに用いるようになります。鬼のように恐ろしいひとたちでも、ひとたび仏性が目覚めれば、弱々しい善人などにはできないような大きな働きをするのです。このように、「魔」というものは、「身内」「身外」何方も、迷いの中に生きているときはマイナスの力をではあるけれども、正しい道を悟れば、それがたちまちプラスの大きな力になることを教えられています。どうしたらそれができるか。いうまでもなく、正しい仏の教えを求め、信じ、実行するという一筋道しかありません。そうすると必ず魔事はなくなるのです。われわれの心や身にこびりついた「魔事」が朝日の前の靄の(もや)ように消え失せて、自分の本質が輝きだしてくるのです。
楽をすると曲者の言動に戻るのです!
仏は「こういう限りない過去のことを今日のことのように見ることができる」ということは、人間の成仏のための修行が無限であることを暗示しておられるのです。そして、全ての人間が、自分の成仏のための修行は限りない過去から果てしない未来まで続くものであるということをしっかりと掴み、今日というものは、限りない過去から果てしない未来へ続いている修行の川の一つの瀬、あるいは一つの淵なのである、ということを悟れ、と暗に教えて下さっているのです。したがって、もし今日の我が身 我が心を濁すようなことがあれば、限りなく続く修行の流れの下流にどんな悪影響があるか、また今日の我が身 我が心を清らかに澄ますことができれば、下流の中ではどう変化するか、ということをよくよく考えてみなければならないのです。世尊が「久遠(くおん)を観ることなお今日のごとし」と仰せられて、次に遠い過去の因縁をお説きになるのもこういう深いお心から発していることを理解する必要があります。