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人間の生きがい

人間の生きがいというものは、ただ安らかに平穏無事な生活を送るところにあるのではありません。創造するところにあるのです。良いものを作り出すところにあるのです。すなわち、修行して自分自身を少しでも良い人間にしようとすることは善の創造ですし、人のためになる行いをするのはもっとも程度の高い善の創造です。色々な芸術は美の創造ですし、すべての正しい職業は世の中のためになる色々なエネルギー(力)の創造です。ところが良いことのために苦心、苦労することにこそ、人間の生きがいがあるのです。少しでも良い人間になろうと努力する。少しでも人のためになろうと努力する。その積極的な努力の中にこそ、われわれは人生の深い喜びを感じるのです。もし我々が苦労もなければ、創造する喜びもない世界に一週間も滞在していたとしたら、たちまち飽きてしまうでしょう。 もしそれでも飽きの来ないような人がいたとしたら、それは怠け者そのものであります。すなわち、まだ迷いの中にいるのであって、そういう人が、仮に天上界に登ったとしても、何かの機会があれば、たちまち修羅道へでも、地獄道へでも墜落する可能性があるのです。ですから、天上界にいる人々でも、自分の身や心は 安穏の境地に達しているにもかかかわらず、 苦しんでいる衆生が 一人でもいる限り、それを救おうとして悩み、仏の衆生済度のお手伝いをするという、積極的な行いをしなければ最上の仏界へは上がれないのです。なぜならば、「人のために尽くす」「人を喜ばせる」「人を苦しみから救う」ために苦心し、努力する。そういう慈悲の行動、創造の生活の中にこそ、本当の深い喜びがあり、すなわち仏の悟りに達している道があるからです。仏界に入る道は、人間界から出発しているのであって、日蓮聖人が「極楽百年の修行は穢土(えど)一日の方に及ばず」と仰られておられるのもそこのところです。そして天上界に入る人も、常に人間界へ降りて衆生を救うという働きをしない限り、本当に成仏することはできないわけです。もろもろの梵天(ぼんてん)の王たちがわざわざ安楽な天上界から降りてきて、自分の宮殿(安楽に暮らせる境界)を投げ捨てて仏の教えに帰依したいと望んだのにはこういう深い理由があるわけです。


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授記品第六

授記品第六(じゅきほんだいろく)の中に、「魔事(まじ)あることなけん。魔及び魔民(まみん)ありといえども皆仏法を護らん」という一句があります。魔というのは、正しい道の邪魔をするものすべてをいいます。魔民というのは、その家来たちです。正しい道を悟ろうとすれば、入れ代わり立ち代わり現れて、誘惑したり、考えを混乱させようとしたりしますし、正しい道を行おうとすれば、徒党を組んで妨害や脅迫をしにやってきます。この「魔」には、2通りあります。第一は「身内(しんない)の魔」であって、われわれの正しい心をかき乱そうとする本能の衝動や邪(よこしま)な思いです。第二は、「身外(しんがい)の魔」で、外部から加わる誘惑や圧力などです。本当に仏の教えを実行し、あるいは、心から仏の教えを求める人たちにとっては、かりにときどき「身内の魔」すなわち邪な思いや本能の衝動の誘惑があっても、それがかえって道を求める志を強くするはたらきをするのです。そして、結果としては仏法を護るということになります。だから、魔や魔民があってと、魔事はなくなるわけです。また、第二の「身外の魔」とは、仏法を身に行うひと、あるいはそれをひろめようとする人に対して、誘惑、非難、妨害、脅迫を加えようとする人たちの行動や言論の力です。ところが、「悪に強きは善にも強い」という言葉もあるように、光徳(こうとく)という理想社会においては、このような魔の人たちも、その魔の強い力を、仏法を護ることに用いるようになります。鬼のように恐ろしいひとたちでも、ひとたび仏性が目覚めれば、弱々しい善人などにはできないような大きな働きをするのです。このように、「魔」というものは、「身内」「身外」何方も、迷いの中に生きているときはマイナスの力をではあるけれども、正しい道を悟れば、それがたちまちプラスの大きな力になることを教えられています。どうしたらそれができるか。いうまでもなく、正しい仏の教えを求め、信じ、実行するという一筋道しかありません。そうすると必ず魔事はなくなるのです。われわれの心や身にこびりついた「魔事」が朝日の前の靄の(もや)ように消え失せて、自分の本質が輝きだしてくるのです。


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楽をすると曲者の言動に戻るのです!

仏は「こういう限りない過去のことを今日のことのように見ることができる」ということは、人間の成仏のための修行が無限であることを暗示しておられるのです。そして、全ての人間が、自分の成仏のための修行は限りない過去から果てしない未来まで続くものであるということをしっかりと掴み、今日というものは、限りない過去から果てしない未来へ続いている修行の川の一つの瀬、あるいは一つの淵なのである、ということを悟れ、と暗に教えて下さっているのです。したがって、もし今日の我が身 我が心を濁すようなことがあれば、限りなく続く修行の流れの下流にどんな悪影響があるか、また今日の我が身 我が心を清らかに澄ますことができれば、下流の中ではどう変化するか、ということをよくよく考えてみなければならないのです。世尊が「久遠(くおん)を観ることなお今日のごとし」と仰せられて、次に遠い過去の因縁をお説きになるのもこういう深いお心から発していることを理解する必要があります。