『正精進(しょうしょうじん)』正しい努力をする。ふつうの努力と違って仏教では自分のいま持っている悪いところを消すための努力。また未だやったことのない悪いことをこれからも絶対にしないための努力、いけないことはこれからもしないという努力、さらには自分の持っているいいところはこれからもどんどん伸ばしていこうとする努力、また今までしなかったいいことをこれからは積極的にやっていこうとする努力、努力にもこうした四つの努力の道があります。精進とは、いい人間になるため、より立派な人間形成への努力ということになるでしょう。
『正念(しょうねん)』とは、原語でsammā-satiと言って、サティ とは気づくという意味です。何に気がつくのかというといまの自分に気がつくということです。瞬間瞬間の自分に気づくことなのですが、自分に気がつくためには精神統一をしなければなりません。
そこで『正定(しょうじょう)』つまり、精神統一の状態で自分に気づく。
精神統一の方法としては、体から覚えさせていきます。
人間はまず体に執着しています。「私は寒い」というのは体が寒いということでしょう。「私」というのは肉体の自分を指すのです。ですからまず肉体から実践していきます。
雑音の少ない場所で坐禅のように坐って、背筋を伸ばします。
こういうことはしてはいけない、とか無我の境地になれなどと言いますが、自分を抑えるということは、それだけでもういまの自分の認識ではなくなってしまいます。
大切なことは、ヴィパッサナー(観察)です。
つまり、ありのままの自分を観るということです。坐禅を組んでいると足が痛くなってきたりします。そうしたら、「いま私は足が痛い」と観察するのです。痛いと思うのではなく、痛い自分を観察する。ただ痛いという感覚もありますから、それはただ感じているという認識でいいのです。また人間は静かにしているといろいろなことを考えますから、考えを否定するのではなく、「あ、いま自分は考えている」「余計なことが心に浮かんだ」というふうに、なるべく短いセンテンスでしまい込んでしまう。
ところで私たちは毎日毎日24時間、死ぬまで生き、行動しているわけですから、四六時中サティ(気づき)の修行をすることも大切と言われています。勉強していても、仕事をしていても、家でパソコンを見ているときも。歩いているときも「右、左、右、左」と体の動きを意識してな歩くのです。それが精神統一につながって、やがていろいろな智慧に恵まれてきます。全て日々の積み重ねてにより、自分自身が作られていきます。